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統計に対する違和感
2010年06月15日 (火) | 編集 |
診察時に医師と話すとき、
「再発率」や「生存率」に触れられると
何か居心地の悪い不快感というか、違和感を感じていた。

「医師の中で、所詮私は統計の中のひとつの数字にすぎないのか」
「統計がどうであろうと、私にとって起こることが私にとってすべて(100%の出来事)だ」
具体的にはこんな風に思っていた。

この思いの根源はどこなのだろう? ずっと疑問に感じていた。

ある日、ツイッターでこのことをつぶやくと、反応があった。
twilogの5月23日、24日を参照)
その中で、上野先生からこんな風なご返答をいただいた。

要約
医療従事者が確率論を患者に話すのはとても難しいことで、コミュニケーション力が問われる。
話すときに患者がそのデータの由来を理解できる段階かどうか、性格的に受け入れられるかどうか見極める必要がある。
統計は患者と医療従事者が共に現実を共有するためのツールである。
統計を患者に上手に伝えられない医師たちは、EBM(*)が理解できないか、コミュニケーション術が欠けているかどちらかだ。

(*)Evidenced Based Medicineの略で「エビデンスに基づいた医療」

確かにコミュニケーション不足というのは大いにありうる。
医師とのコミュニケーションが上手く行っていれば、話した内容や、治療についての不安が軽減され、患者自身が納得して治療を受けられる第一歩となるように思える。

「医師の中で、所詮私は統計の中の数字のひとつにすぎないのか」
この違和感は、コミュニケーションによって解消できそうだと納得した。

しかし
「統計がどうであろうと、私にとって起こることが私にとってすべて(100%の出来事)だ」
こちらについては、コミュニケーションが取られても、EBMを遵守して患者の意思を尊重した医療が行われても、解決されるのだろうか?と思い、少々違和感が残ったままだった。

先日「知ることより考えること」池田晶子(新潮社、2006年)という本を読んだところ、その答えとなりそうな記述があった。

p.11~13「長命も短命も」
要約(一部引用)
人は平均寿命について話すとき「長い」とか「短い」とか主観的な感想を述べる。
しかし、平均寿命まで誰もが生きられると言う保証はないし、先のことはわからない。
すると平均寿命があくまでも「平均」、あくまで他人の場合ということがわかる。
「平均」すなわち統計をもって、自分の寿命と他人の寿命を外から比較できるように人は思うが、それは錯覚である。
長短は相対だが、生とは、比較不可能な絶対だからである。
生きているのが自分であるとは、死ぬのが自分であると言うことだ。
死がなければ生はなく、生がなければ死はない。
死とは、数十年後の平均寿命にあるのではなく、生きている今にこそある。
人生には長いも短いもありもしない、人生には今しかない、寿命なんて結果にすぎない。

「長短は相対だが、生とは、比較不可能な絶対」
このことばに全てが集約される。
再発率、生存率は「統計」、すなわち自分に必ず当てはまるかわからない「他人の場合」である。
生きている今の自分は誰にも比べることのできない、自分にとって絶対的な存在である。

「私にとって起こることが私にとってすべて」と思える根拠はここにありそうだ。
統計をもって「確からしい将来を模索」することはできるが、それが必ずしも起こりえない限りは錯覚にすぎないのだ。

しかし現実問題として、「今を生きる」ために統計を治療選択のツールとして用いることは重要だ。
数字がどうであれ、100%と0%がない限り、どちらに入るか絶対的なことは誰にもわからない。
「わが身に起こることがすべて」だが、恐がりそこに固執しては前に進めない。
ある程度割り切って俯瞰的に、客観的に物事を見る目も必要なのかもしれない。

医療従事者のコミュニケーション力や、EBMの理解力はあってほしいものだ。

一方、主体的に治療に関わるためには、
患者としてのコミュニケーション力を磨かなくてはならない。
治療を選択するとき、統計を見るときには、「他人の場合」に自分を当てはめ、割り切った選択をしなくてはならないこともある。

今を生きるために、自分の人生を簡単に人任せにしないためには、患者力の向上はやはり必須なようだ。

もっと早く気づけていたら、何か違ったのだろうか。
・・・・・・これも絶対はない。考えるだけ不毛だ。


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月の裏側
2010年05月12日 (水) | 編集 |
立ち寄った本屋さんでたまたま見かけた本。

「びたみん○をたくさんとると、がんがなおる」
という内容・・・。

この本の著者。
「うつびょうをくすりをつかわずにしょくじでなおす」
という本も書いていると知った。

(検索逃れのため、わざと平仮名で書いてます。
読みづらかったらごめんなさい)

ちょっとタイトルを聞くと、とっても魅力的なんである。

でもね・・・。


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雨の日に思う。「共感から勇気へ」
2010年04月22日 (木) | 編集 |
これから書くことはあくまで私の個人的な思いです。




なぜ私達患者の多くの人がブログなどで自らの体験や思いを語るのか?

それは憐れみを得たいのでもなく、同情されたいのでもなく、共感しあいたいからではないか?と私は考える。

共感しあうことは孤独ではないと確かめあうこと。
これは患者にとって大きな勇気となり得ることだ。




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ガイアの夜明けを見て
2010年02月24日 (水) | 編集 |
きのうのガイアの夜明けのゲストは「青山フラワーマーケット」の社長さん。

途中のVTRで、横浜シアル店が出てきた。
全店舗の中で売り上げ第二位なのだそうだ。
とっても立地が良くて人通りの多いところに面しているお店。

そんな店舗に届いた覆面調査の結果。200満点中91点。
店舗平均が約150点だそうで、この悪い結果にスタッフさんみんなが青ざめていた。

原因は、忙しい店舗であるがゆえ、レジや作業に人員が取られてしまい、接客ができないことにあった。
接客を必要としているお客さんは、話しかける店員がいないことで、買わずに帰ってしまっていた。

調査結果を受け、スタッフ力を合わせて作業の合間にも声掛けなどを行い、目配り気配りが行き届くよう奮闘する・・・そんなVTR。

忙しいお店っていうのは、接客しなくても売り上げは取れてしまう。
そのため接客がおざなりになってしまう。
しかし、限られた人員の中で接客しよう、っていうのは相当大変だよな~・・・って、元販売員としては見ていて胃が痛くなったのだった。

思い出したのは某陶器店、ひとりで店番しているときに、同時に何人もお客さまが来店した場合。
この時にかかるストレス・・・主に焦りとか待たせてしまう申し訳なさとか、人手がいないことへの行き場のない怒りとか(笑)。
「順番にお伺いしておりますので、申し訳ありませんがお待ちいただけますか?」と声を掛けて、なんとかやりすごして来たけれど、それでよかったのかな~?それでお客様の待たされている不満はどれほど減少したかな?と疑問に思う。

そのお店にいたときは、繁忙期はレジの裏でごはんを食べて、忙しくなったらいつでも外に出れるようにスタンバっていた。
ほとんど休んだ気はしなかったな。
人件費の兼ね合いでとにかく人手が足りないのだ。
安い給料でよく頑張ってたな~と思う(笑)。
お客様にありがとうって言ってもらえた時の喜びが、販売員の栄養源なのかも。

嫌いな仕事ではないのだが、戻りたいような戻りたくないような世界なんだな。
売り場がばっちり決まって売り上げが取れた時の達成感は格別だ。
でもほとんどの場合予算とれないからな~。

色んなことを思い出してしまったわ。


みんなちがってみんないい
2010年02月18日 (木) | 編集 |
わたしと小鳥とすずと(金子みすず)

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。





読売新聞の夕刊に「乳がん 絵本で向き合う」という本田麻由美さんの書いた記事が出ていた。
記事はこちら→

この記事によると乳がんに罹患した人たちの中で、子育て世代は3割に及ぶという。
私と同世代くらいの患者さんなら、まだお子さんが小さくて、病気のことをどう伝えたらいいんだろう?って悩まれている人も多いのではないかなーと改めて想像する。

私にはこどもはいないから、お母さんたちの大変さは想像することしかできない。
辛さを想像する反面、単純にこどもがいてくれていいなぁ、うらやましいなぁって思いもある。
反対に逆の立場からしてみれば、フットワーク軽く遊び呆けている私をうらやましいと思うひとも・・・もしかしたらいるのかも?

病気になって、仕事とか恋愛とか結婚とか出産とか子育てとか、生き方すべてにさまざまな障害があることを感じてしまう瞬間。
ほんの小さな障害なのに、より大きいものだという思い込みの枷を自らしてしまうこともある。
治療方法ひとつを取っても、みんなそれぞれ違うことを知っているのに人と比べてしまう。そんなこともある。

人と比べてまわりをうらやんでも、なんのプラスにもならないのはわかっている。
しかし、それでも割り切ることができないというのも、人の性かもしれない。

「みんなちがって、みんないい。」
きれいごとかもしれないが、そう思える自分でありたい。


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